備忘録2

男子問題の時代?:錯綜するジェンダーと教育のポリティクス

男子問題の時代?:錯綜するジェンダーと教育のポリティクス

 

  

「男性的」と定義される能力は「正当な能力」として公的に認められる傾向が強かったのに対して、女性的と見なされる能力は「正当な能力」の範疇から除外されがちだった。たとえば、近代社会における最も公的かつ基本的な「能力証」は学歴であったが、学歴は男性的特質とされてきた知識や思考といった理性面での能力を保証するものであり、女性に特徴的とみなされてきた「感情を整理する」能力(Hochschild 1983=2000:12)を保証するものではなかった。

また、土木・建築・製造といった第二次産業の拡大をともないながら発展していった近代産業社会は、身体を用いた労働におけるモノづくりや筋力労働といった「男性的能力」のニーズが極めて高い社会でもあった。こうした社会的状況においては、男性は、社会化(socialization)の過程において自らの性に対して期待される能力を伸ばしていけば、それが労働市場における安定した雇用や収入に結びつきやすかった。とくに日本では、1960年代に急速に高まった労働力需要を満たすため、それまで非正規労働者として雇用されるのが通例であったブルーカラー層が正社員として雇用される機会が多くなり(本田2004)、幅広い階層の男性労働者が安定した雇用と収入を確保することができていた。(多賀太『男子問題の時代?―錯綜するジェンダーと教育のポリティクス』学文社 、2016年、p.65)

 

これまで男性に特徴的とされてきた能力の価値が相対的に低下し、代わって女性の特質とされてきた能力の価値が上昇してきた。(中略)

重工業中心の工業社会から情報とサービス中心の消費社会へという社会変動のなかで、労働者に求められる能力に変化がみられるようになった。機械化の進展と製造業の衰退により、これまで主として男性に求められてきた筋力労働やモノづくりに関わる能力の需要は相対的に低下してきた。他方で、家事の市場化やサービス部門の拡大が進み、これまで女性に求められてきたケア能力や対人関係能力の需要が高まってきた。(多賀太『男子問題の時代?―錯綜するジェンダーと教育のポリティクス』学文社 、2016年、p.69)

 

 

 

福祉排外主義とは、比較政治学者であるキッチェルトが提示し、現在では広く受け入れられた概念であるが、福祉・社会保障の充実は支持しつつ、移民を福祉の濫用者として位置づけ、福祉の対象を自国民に限定するとともに、福祉国家にとって負担となる移民の排除を訴える主張である。(水島治郎『ポピュリズムとは何か―民主主義の敵か、改革の希望か』中央公論新社、2016年、p.70)

 

ポピュリズムは、「ディナー・パーティの泥酔客」のような存在だという。

上品なディナー・パーティに現れた、なりふり構わず叫ぶ泥酔客。招くべからざる人物。その場の和やかな雰囲気を見出し、居並ぶ人々が眉をひそめる存在。しかしその客の叫ぶ言葉は、ときとして、出席者が決して口にしない公然の秘密に触れることで、人々を内心どきりとさせる。その客は、ずかずかとタブーに踏み込み、隠されていた欺瞞をあばく存在でもあるのだ。(水島治郎『ポピュリズムとは何か―民主主義の敵か、改革の希望か』中央公論新社、2016年、p.231)

 

 

戸籍って何だ―差別をつくりだすもの (プロブレムQ&A)

戸籍って何だ―差別をつくりだすもの (プロブレムQ&A)

 

 

明治になって始まった日本の近代戸籍は、「庶民の家系図」と呼ばれました。今もそうですが、戸籍は住民登録とは異なり、「家の系譜を辿ることのできる家族の記録」だと考えられています。だとすれば、唐の戸籍は、近代戸籍とは違い「戸」の記録なので、現在の住民登録に近いもの、といわなければなりません。(佐藤文明『戸籍って何だ―差別をつくりだすもの (プロブレムQ&A)』緑風出版、2010年、p.20)

 

戸籍が居住関係の登録であり、国勢調査のような五年ごとの一斉調査(登録)であったなら、日本人居住地における外国人の排除は起きなったかもしれません。(中略)

しかし、明治政府が五年ごとの一斉調査をする力がなく、届出制に舵を切ったことから、届出を促す強制力が必要になりました。そうなって初めて、太政官布告の前文が大きな意味を持つに至ります。すなわち、「戸籍に就かなければ外国人扱いし、日本人として保護しないぞ」という強迫が、戸籍への届出を強制する力になったのです。

この強制力は当初、外国人を差別するというよりも日本人を差別するために機能し、日本人でありながら戸籍のない者や、戸籍が持てない者を「二級国民」、あるいは「非国民」としてさげすむ風潮を作り出します。(中略)

この構造はまた、植民地台湾や朝鮮でも活用されます。日本国籍者とされた台湾や朝鮮の人たちも、戸籍法の適用対象者にはならず、それぞれ別個な台湾戸籍、朝鮮戸籍に編入されたのです。そして婚姻によって女子が夫側の戸籍に編入されることを除き、男子はそれぞれの戸籍(戸籍と国籍の中間に当たる日・台・朝それぞれの民族籍を「民籍」と呼んでいました)を移動することが許されませんでした。

そしてあるときは日本人としての責務を押し付け、またあるときは日本民族ではない「二級民族」としての地位に甘んじさせられたのです。そのため、台湾・朝鮮の内部からも「戸籍の統一」を求める声、すなわち立派な皇民となって、皇軍の兵士として徴兵されることを名誉だとする考えが浮上してきます。

外国人は日本人の中にこうした心理が生み出され、都合のよい支配が実現されるためにも、差別の対象でなければなりませんでした。外国人が日本人並みに保護されてしまっては日本人の中にこうした心理が育つことができないからです。

戸籍は本質的に、外国人を差別すればするほど、安定した支配装置となるのです。人々は差別されることを避けるため、自ら届出を励行し、制度のありがたみに感涙し、戸籍の軍門に下るのです。だから戸籍は外国人を差別しつづけ、平等化することを恐れます。(佐藤文明『戸籍って何だ――差別をつくりだすもの (プロブレムQ&A)』緑風出版、2010年、pp.95-96)

 

女性の権利はこうした個としての地位を確立し、差別をなくすことにあるのであって、妻の座の向上を求めたり、向上した妻の座の片隅に位置を占めることではないのだ、という主張です。それらはまた、働く独身女性のさまざまな不利益を解消する運動とも連動しています。(佐藤文明『戸籍って何だ―差別をつくりだすもの (プロブレムQ&A)』緑風出版、2010年、p.150)

 

諸外国において国籍とは民族とは異なる個人の変更可能な属性で、生活圏における所属成員権であると考えられています。生活圏における権利は地域との絆の表れであり、まずは「市民権」として認識されます。これが国家領域に拡大したものが「nationality(国民権)」です。

したがって、国籍の取得(市民権の取得)とは、生活圏との絆を確立した者の成員権を市政府や国政府が追認するもので、政府が勝手に与えたり奪ったりするものではありません。だから、地域との絆がない渡来者が国籍取得を申請する場合は別として、政府が取得に条件をつけるのは本来、筋違いなのです。(佐藤文明『戸籍って何だ―差別をつくりだすもの (プロブレムQ&A)』緑風出版、2010年、p.184)

 

双子の兄弟になぜ、兄・弟を決めなければならないのでしょうか。

固定的な序列をわざわざこしらえ、人々の暮らしに差別を持ち込むこうした登録は許しがたいものです。民間の慣習に任せるか、無用な区別を廃止するのが筋ではないでしょうか。(佐藤文明『戸籍って何だ―差別をつくりだすもの (プロブレムQ&A)』緑風出版、2010年、pp.199-200)

 

人の連続的な属性について、カテゴリーを発見し、分類するのは学術的研究にとって不可欠な営みです。しかしこれは不鮮明な現実を鮮明にし、問題発見を助けるものであって、現実そのものではありません。(中略)

したがって、この分類を実際の人間に当てはめ、現実の人間よりも「真」であると考えてはなりません。そうした行為は分類の中間域を抑圧し、分類によって与えられた評価によって不当な差別がもたらされるからです。(中略)

したがって、このような分類はむやみに行うべきではなく、必要最低限度にとどめるべきであるとともに、現実の人間に沿った修正が不断に行われる体制がなくてはなりません。(佐藤文明『戸籍って何だ―差別をつくりだすもの (プロブレムQ&A)』緑風出版、2010年、p.201)

 

「だめだ」といわれたら理由を聞き、納得の上で訂正しましょう。ここでも生年月日を西暦で記入することは可能で、訂正を命じるのは不当です。わたしたちが従わなければならないのは法律だけで、通達は役所を拘束するもの。わたしたちが従う必要はありません。また、「元号法」も政府機関に対する法律で、わたしたちを拘束するものではありません。(佐藤文明『戸籍って何だ―差別をつくりだすもの (プロブレムQ&A)』緑風出版、2010年、p.211)

 

 

 

個人的なことは、口外しないこと。アウティングは、「そもそも隠してる方が悪いんだ」みたいな話じゃない、個人と個人の信頼の話だからね。(牧村朝子『ゲイカップルに萌えたら迷惑ですか?』イースト・プレス、2016年、p.80)

 

性分化疾患……卵巣・精巣や性器の発育が非典型的である状態。

  ―日本小児内分泌学会性分化委員会 性分化疾患初期対応の手引き

 

この「性分化疾患」とは、60種類以上の様々な疾患名の総称であり、「性分化疾患群」とでも言うべきものなの。ひとりひとりの身体はみんな違うし、ひとりひとりの自己認識もみんな違います。本人と話もしないまま、「男か女しかない性別欄で苦しんでいるはずだ!」と決めつけることは、自分自身の主張のために他人を道具にするような、失礼なことよ。性分化疾患の一種と診断された人には、自分を男もしくは女と認識している人だって、LGBTの権利運動に利用されることを好まない人だっているんだということを、まずは踏まえておきたいわね。(牧村朝子『ゲイカップルに萌えたら迷惑ですか?』イースト・プレス、2016年、p.84)

 

たとえネット上であっても、ネタにされている人は実在する人間だという感覚を忘れないこと。(牧村朝子『ゲイカップルに萌えたら迷惑ですか?』イースト・プレス、2016年、p.116)

 

 

魔女の1ダース―正義と常識に冷や水を浴びせる13章 (新潮文庫)

魔女の1ダース―正義と常識に冷や水を浴びせる13章 (新潮文庫)

 

 

おおよそ大多数の人々にとって、自己や自民族を中心に世界は回っている。それは必ずしも悪い良いと決めつけられることではなく、生命体の自己保存本能から発する自然の法則のようなものである。だから、「相手に身になって」考える「思いやり」には限界がある。相手自らに語らせて、常にそれに対して心開き耳傾ける姿勢であることのほうが、より確かな気がする。(米原万里『魔女の1ダース―正義と常識に冷や水を浴びせる13章』新潮社 、1999年、p.117)

 

 

嘘つきアーニャの真っ赤な真実 (角川文庫)

嘘つきアーニャの真っ赤な真実 (角川文庫)

 

 

「でも、私にはボスニアムスリムという自覚はまったく欠如しているの。じぶんは、ユーゴスラビア人だと思うことはあってもね。ユーゴスラビアを愛しているというよりも愛着がある。国家としてではなくて、たくさんの友人、知人がいるでしょう。その人たちと一緒に築いている日常があるでしょう。国を捨てようと思うたびに、それを捨てられないと思うの」(米原万里嘘つきアーニャの真っ赤な真実角川学芸出版 、2004年、p.291)

 

 

母の友 2017年2月号 特集「LGBT 自分の性をいきる! 」

母の友 2017年2月号 特集「LGBT 自分の性をいきる! 」

 

 

本来、法律上の結婚は、家族の幸せを守るためにあるもののはず。幸せの権利は、どんな家族にも平等にあり、家族のかたちは、その家族によってそれぞれです。でもいつの間にか人の営みと法律の重要性が逆転してしまって、法律上の結婚ができない人たちはよくない存在、幸せになれなくて当たり前の人たちになってしまっているんですよね。(南和行「ふうふのかたち、家族のかたち」、『母の友 2017年2月号 特集「LGBT 自分の性をいきる! 」』、2016年12月22日、p.30)

 

「同性カップルの結婚を法律で認める」ことへの議論は、単に同性愛者だけの問題ではなく、なぜ、法律上の結婚をした人たちに限って、様々な権利や恩恵が認められるのか、という結婚の本質を探る議論だと思います。

戦後の日本は一時的に人の営みが、均一化され、法律もそれに合わせるように整えられてきましたが、今また、社会が変わってきていて、国境をまたいだ人の移動も盛んになり、働き方も多様になってきて、法律というものが、どうもカバーしきれてないんじゃないかと思います。法律からこぼれる人が多くなってきたならば、人を法律に押し込めるのではなく法律を広げる議論を進めればいいと思うのです。(南和行「ふうふのかたち、家族のかたち」、『母の友 2017年2月号 特集「LGBT 自分の性をいきる! 」』、2016年12月22日、p.31)

 

私たちは別に奇を衒って同性カップルとして人生を送っているのではなく、これまで暮らしてきた連続性の上に今の人生が成り立っています。どんな人でもそれは同じで、背景の事情が人を不幸にするのではなく、今、その瞬間のいろんなことが、人を不幸にしたり、幸せにしたりするわけですよね。だから、自分の価値観だけで、他人の人生を、あの人は幸せで、あの人は不幸せだと判断するのではなくて、人の営みがそこにあるのですから、そこにいる家族が幸せに生きられるように、みんなで工夫しましょうと思うのです。(南和行「ふうふのかたち、家族のかたち」、『母の友 2017年2月号 特集「LGBT 自分の性をいきる! 」』、2016年12月22日、pp.31-31)