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月刊根本宗子『夢と希望の先』

 

 

断片的な感想がひっきりなしに湧き出して暴れては次の奔流に押し流されていくような、そんなすごい作品だった。

 

浅野 (中略)今こうやって演劇を観に来る人たちは根本さんに何を求めてるんだろうと思って。根本さんは今、自分に何を期待されてると思う?

根本 どうだろう? たぶん今、演劇をやっていそうなイメージからはちょっと外れたところにいると思うんですよ。夢眠ねむちゃんとネットで番組やってることもそうだと思うんですけど、あんまり文化部っぽくないなって。あと、何かやりたいけど自分では出来ないっていう女の子か、憧れとまではいかないまでも、自分を重ねて見てくれているとこはあると思います。もらう手紙とかを読んでもそうなんだろうなって。(月刊「根本宗子」 第13号 「夢と希望の先」パンフレットより)

 

ある種のフィクションが自分の代弁者であるように感じるのは、その作品が自分の個人的な記憶をも巻き込んで引きずり出して、感情を根こそぎ揺さぶっていくからだ、と思う。

舞台の上の群像劇を見つめながら考えていたのは、登場人物のことばかりでもなかった。むしろ目のまえの群像劇に呼び起こされていたのは、自分の、それこそ個人的な思い出や日々の感傷的なモヤモヤだったのかもしれない。

 

根本 でも、プライベートを充実させたいっていうのは分かります。大森(靖子)さんが子供産んだじゃないですか。で、ママになった大森さんを見てると、着実に家庭を築いていて、それって明らかな変化じゃないですか。妊娠するとか家族が増えるっていうのは。同級生でもそうですけど、身近な人がそうなっていくると、そういう変化は欲しいなって思います、最近。

 

いつだって岐路に立つ私たちはなにかを選び、そうした選択の中で生きていく。

『夢と希望の先』の中で、登場人物たちは現実に生きる私たちと同様、なにかを選び、なにかを諦め、それでいて自分という人間のしてきた選択について、割り切れないものを抱えて生きている。

結婚や妊娠というわかりやすい人生の節目。現代の日本においては、結婚も妊娠も異性という相手があってのことだ。人生の節目におけるパートナー。けれどどうして、選ぶのはこんなにもわかりあえない異性なのだろう。異性でなければならないのだろう。

終盤、主人公の幸子(橋本愛/根本宗子)は、十年付き合った彼氏の仕打ちに激高する。

幸子は自分の女優になるという夢を諦め、OLとして働きながら二人での生活費を工面してきた。けれど彼氏は、自分が稼いだわずかばかりのバイト代をニコ生で知り合った少女に貢ぎ、幸子が家賃を支払う部屋の、それも幸子が日々寝起きするベッドの上でセックスまでしてしまう。

十年前、まだ付き合ったばかりの頃、幸子は幼稚で甘ったれた優一の言動をカワイイと言って無邪気に喜ぶ。けれど十年後、優一は知り合った少女にカワイイと言ってものを貢ぎ、幸子のベッドをセックスの場所として提供しさえする。

いつか消える、恋愛なんてものに、恋愛ですらないかもしれないものに、そうやってお金を落としていくということ。カワイイという寛容の地獄。その決め手になるものが性的指向で、それはときに、自分の目をどうしようもなく曇らせていく。

幸子と恵津子。『夢と希望の先』の核の部分になるところ、を考えたときに私のなかに浮かび上がってくるのはこの二人の関係だ。

プー・ルイさん演じる恵津子は、幸子と同郷の一番の親友だ。上京した幸子を追いかけるように自身も東京にやってきた恵津子は、親友のまだできたばかりの彼氏について不安を覚える。言葉を選びながらも、恵津子はその不安を幸子に何度も伝えようとする。けれど幸子は、その言葉を真剣には受け止めない。そしてある日、彼氏である優一の言葉をきっかけに、大事なオーディションを蹴ろうとする幸子を恵津子は必死に説得する。けれど、そのことがかえって幸子の逆鱗に触れる。幸子と恵津子は、それ以後疎遠になる。

十年後、幸子はかつて恵津子の残したCDを聴くことになる。恵津子役のプー・ルイさんの歌を聴きながら私は涙が止まらなかった。幸子はCDを聴きながら、自分の選択を心から後悔する。どうして自分は恵津子のことを信じなかったのか。

現実と同じように、どんなに正しいことを言っていたとしても必ずしもそれが選ばれるわけではない。メッセージはいつでもノイジーでまっすぐには届かず、何を言うかよりも誰が言うかが優先されることはどうしたってある。そしてその決め手が、ともに過ごした年月よりも思い入れの多寡よりも信じたい幻想であることも。

 

浅野 (中略)自分の表現の中の普遍的な部分ってなんだと思う?

根本 いつまでも人が対立する瞬間を書きたいです。

浅野 あー、それは前も聞いたな。それ言ってたよね。

根本 絶対に対立してるじゃないですか、世の中は、

浅野 うん、してる。

根本 誰かと誰かが対立してる、その繰り返しでしかない気がするので。分かりやすいところだと、別れのシーンとか痴話喧嘩みたいな。女同士でもいいんですけど、そういう対立のシーンになるとすごい書いててテンションあがっちゃう。いちばん書いてて楽しいんです。最終的に対立が書きたいから序盤の伏線をがんばって書いてるということはあります。

 

わかりあうことの切実さ、思いの通じない異性という他者への苛立ちを、終盤に一気にブーストさせることで怒涛のフィナーレに持っていくということ。『夢と希望の先』を観ながら、その手法に特に思い出されていたのは過去の公演作である『もっと超越したところへ。』だった。

『もっと超越したところへ。』を観たときに感じていたのは、生きる糧としての他者、についての物語だったように思う。対して『夢と希望の先』に感じていたのは、もっと個人的な物語だった。それは、自分を生かすのは自分のこの頭ひとつだ、という強烈なメッセージだった。

誰かと幸せなつがいになることも、社会的に成功することも、広義の意味では誰かに見初められること、と言えるかもしれない。*1けれど、誰かに見初められることでしか救われないなんて、そんな不幸なことはあるだろうか。

「わかってほしい」という気持ち。それは、物語にとって大きな推進力となる。そしてその気持ちが生む対立を、心から面白がり、心から楽しみながら、こうも旺盛にエンターテイメントに仕立て上げていく根本さんの姿に私は心から憧れた。

カーテンコール。本多劇場という舞台で、スポットライトを浴びてピースをする根本さんの姿が目に焼きついていた。心からすごいと思った。こんなすごい作品を、こうしてリアルタイムで観ることができて本当に幸せだった。

 

 

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プー・ルイさん。「さっちゃんのセクシーカレー」本当にすばらしかった…。

 

 

*1:つがいになること=見初められること、と言うのはぜんぜん適当な言い方ではない気もするけど。