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映画『シン・ゴジラ』について

映画

面白かった。とても面白かった。けれどどこかモヤモヤしてしまったのはなんでなんだろう、と考えていた。

ここしばらくウーンと考えててなんだかその答えらしきものがぼんやり浮かんできたので、まとまらないながらその覚書です。

 

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東京の街並みがつぎつぎに破壊されていく序盤。ゴジラが通り過ぎた後の瓦礫の堆積する壊滅的な街の姿には、ほとんどの人が既視感を覚えたんじゃないかと思う。

圧倒的なカタストロフ。太刀打ちできない強大な力を前に、積み上げてきたあらゆる営為がねじふせられていくということ。

2011年3月11日。あの時私はまだ大学生だった。サークル活動のために大学にいて、建物の地下で地震に遭った。揺れが収まるとすぐに駅に向かって、けれど電車はもうとっくに止まっていた。まだ寒い時期だったので、電車が動くまでの時間をつぶすために友達とカラオケに入った。そうしているうちに電話やメールも徐々に復活しはじめて、家族と連絡も取れるようになった。そして数時間後、覗いていたtwitterで大学の講堂が解放されたことを知った。

夜の20時過ぎ、解放された大学の講堂に足を踏み入れた時、スクリーンには津波の映像が映し出されていた。起きたことの甚大さを思い知ったのはこの時だったように思う。押し流されていく建物、樹木、車両の数々。取り残される人々。見たものをすぐには受け止められなかった。言葉が見つからないまま、講堂の大きなスクリーンに目を奪われていた。

IMAXのスクリーンの中のゴジラは、かつて私が講堂で見た津波の映像とどこか重なって見えた。スクリーンの中の東京は、確かに私のよく知った日常じみている。そしてそれが突然破壊されていく。地続きの日常が、抵抗らしい抵抗もかなわないまま、ただ瓦礫にされていく。

ゴジラの見せる圧倒的な破壊力を前によぎったのは、ああこれはウルトラマンなき怪獣映画なのだ、という実感だった。ゴジラという災厄に単体で太刀打ちのできる者はいない。だからこそ、人間は力と知恵を合わせ集団で迎え撃つ。それを担う場所として行政機関が存在していて、対策が講じられては現行の制度や技術とすり合わせながら実行へと移されていく。熱量と演出された現実感を伴ってその過程が描かれていたのが、『シン・ゴジラ』の大きな見どころだったように思う。

その過程は、それこそあの東日本大震災においても同じだった。原発の事故の対応に追われる政府の様子を、私達の多くは毎日のようにテレビで見ていた。非常事態の中で、対策が講じられては実行に移されていく。事後報告的な決定事項と、実行された結果を、私達はニュースで見ていた。

けれど『シン・ゴジラ』のカメラは、行政機関の中枢に入り込む。一刻を争う事態の中で奔走する登場人物達を、観客はリアルタイムに見つめる。あの震災の時、事後報告的に見つめていたその過程は、『シン・ゴジラ』においては同時進行的なできごととして描かれている。しかし当然のことながら、観客としての私達は決してそこに携わることはできない。

シン・ゴジラ』を観た後、なんだかどうもモヤモヤしてしまったのは、たぶんそういう部分も影響しているんだと思う。友達と話していたのはもし自分があの世界にいたとしても間違いなくモブだよねえ、ということだった。あんなに同時進行的に描かれた作品だったのに、ゴジラが休止するまでの過程に確かに興奮したのに、観終わった後にストンと落ちてきたのはそんな実感だった。

矢口さんもカヨコさんも尾頭さんも、皆が頭の回転の速い人達で、とくに前半部分の会話劇は聞きながらすごくワクワクした。濁流のような情報の流れにさらされながら、その中から必要なものを選別して作戦を組み上げていく過程がとても面白かった。

スクリーンの中の必殺仕事人めいた人々の動向を特等席でまなざすということ。これ以上に望むものは無いし、それこそが作品の醍醐味だと思う。そう思いながらもなぜか、ああ面白かった、で終わることができなかった。

シン・ゴジラ』内の一般の人々だって、きっと事後報告的に政府の決定を見つめるしかないんだろう。私が感じたモヤモヤは、そのこととおそらく無関係ではないと思う。震災の時、私達の多くは大切ないろいろを後になってから知らされた。『シン・ゴジラ』においてもそれは同じだろう。中央に集まる情報の全てが開示されるわけではない。是非を問われる前に大切なことは既に決まっている。

もちろん単純に幕引きの不気味さにモヤモヤしている部分もあると思う。説明のされないまま映し出される最後の場面は、確かに不気味だった。

でもその二つだけにモヤモヤを回収するのもなんだかちょっと違和感でもあった。

結局のところ、私にとって『シン・ゴジラ』は一握りのエリートを描いた映画、だったんだと思う。それがモヤモヤの一番の要因だった。

震災の時、私はまだ学生だった。自分が社会に出てどうなっていくのか、何をしていくのか、あまりよくわかっていなかったように思う。

社会人になってもう数年が過ぎた。今私がしているのは、学部で学んだこととはあまり関係のない仕事だ。

シン・ゴジラ』は、ゴジラという未曽有の災厄に対して、能力のある優秀な人達がいかに権限と技術を行使していくか、という映画だったように思う。そしてその優秀な人達の仕事ぶりを見つめながら、自分が「そちら側」の人間ではないことをまざまざと感じさせられた。「そちら側」の人間に私はなれなかった。ゴジラと震災に重なる部分があるからこそ、そのことを強く実感した。震災の時、私は大学生だった。自分が何者かになる可能性を少しも思い描いてはいなかったと言えば嘘になる。

奔走の末、映画の中のゴジラは活動を休止する。けれどそこで終わらないことは作中でも提示されている。ゴジラが活動を休止した後も、人々が直面していく問題はおそらく山のようにあるだろう。中枢機関は先頭を切って、それらを取り扱っていくための方針を考え、解決のために手段を講じていくのだろう。

そしてそれを直接に取り扱っていくのは、中枢から離れたところにいる、数えきれないほどの名も無き人々なんだろうとも思う。

今、私は業務の中で震災に関わることに携わってもいる。名も無き一人として仕事をする中で、起こってしまったことの大きさを時々改めて考えさせられる。被災地には一人ひとりの固有の生活があって、それが突然の災厄によって脅かされた。積み上げてきたものを壊された時、元通りに復元することはとても難しい。だからこそ、指針は示され、手段は講じられるべきなのだと思う。

 

今もこの先も、生きていくのはウルトラマンもいない、特別な能力など何ひとつない自分という現実なんだよなあと思う。

なんだかまとまらなかったし結局感想が横道にそれてしまった感もあるけど、要するに序盤の破壊される東京という絶望感と結末を迎えて突きつけられた自分の圧倒的モブ感との相乗効果、が私にとっての『シン・ゴジラ』でした。