映画『ハッピーアワー』について

去年の年末に観て、どうしても書き残しておきたかった映画『ハッピーアワー』についての感想です。

二月からだいたい二ヶ月弱、休日や平日の夜帰宅してからの時間で細々と書き続けた成果であり私の限界です(い、引用だらけになってしまった…)。

f:id:tsubametobu:20160625145735j:plain

映画『ハッピーアワー』公式サイト – 2015.12全国順次公開

 『ハッピーアワー』は五時間を超える、とても長尺の映画だ。

ふだん映画をあまり観ていない私の印象として、その長さは正直ハードルが高かった。

映画をたくさん観てきた人でないと楽しめない作品なんじゃないかと思ってしまったし、いくら面白くても長すぎて途中で席を立ってしまうんじゃないか、とも思ってしまった。

だからこそ、いくら「観に行くぞ!」と決めていても当日はちょっと腰が重かった。

 けれど何度でも言いたいのは、そんな私でさえ結果的には三度観に行ってしまったし、こうして文章に残しておきたくなるほどのすばらしさがこの作品にはあった、ということだ。

 『ハッピーアワー』という映画がすごいのは、この長さにもかかわらず、観た人を惹きつけてやまない面白さを持っているという点だ。

この面白さは、おそらくその人が観てきた映画の多寡を問わない。きっとあらゆる人に開かれている。

そしてこの面白さを作り上げるために、五時間を超える時間が間違いなく必要なものとして存在している。そういう説得力のようなものが、この映画にはある。

 

『ハッピーアワー』は、あかり、桜子、芙美、純という三十代後半の四人の女性と、その周辺のひとびとを巡る物語だ。

私にとって、この『ハッピーアワー』という映画は、それこそ登場人物のひとりである桜子が言うように、「自分の拾い損ねたものを、拾って、背中叩かれて、渡してもらった」体験そのものだった。

自分の文脈と他者の文脈を取り結んでいくこと、他者の声を「聞く」こと。

誰かと関わっていくということについて、ぼんやりと考えていたような、いなかったようなことが(厳密に言えば考えていないようなものだったんだろうとも思う)、こうしてひとつのかけがえのない作品となって目の前に表れてきた。

私にとってその体験はとても驚きだったし、こんなにもすばらしい作品に出会えたことは間違いなく幸せだと思えた。

そしてまた、『カメラの前で演じること』*1をはじめとした『ハッピーアワー』についての文章を読む中で、その作品づくりと描かれている物語との緻密な相関関係にひたすら圧倒された。

こんなすごいことを考える人がいたのか、そしてそれをかたちにする人がいたのか、と思うと、途方もない気持ちになった。

こんなにもすばらしい作品に出会えたことが、本当に幸せだと心から思う。

幸せを感じたとしたら、それは、この作品づくりが、人を知ろうとすること、関心を向けることによって行われたからなのかもしれない。そして、そのようにして作品に登場する架空のひとびとの時間が生まれたということに、感動を覚えたからなのかもしれない。

インタビュー(http://cineref.com/report/2015/12/happyhour.html)の中で、濱口監督は次のように言う。

 

 濱口監督:社会全体の問題だと思いますが、関心を誰かに向けるということがとても大きな力を持っているということの価値を、社会全体が認めていないんですよ。人と人とが互いに関心を向け合うだけで、おそらく社会全体の幸福はそれなりに上がっていくと思いますが、社会全体でそれが一番大事なことだとは設定されていない。

 

 濱口監督:(中略)きちんと相手と向き合い、見たり聞いたりするというのは単純に時間がかかります。とても大事なものなのに、関心を向けられていない。だから、僕はそこを取り扱っているのだと思います。

 

インタビューの中で指摘されているのは、濱口監督の作品の底を流れている、人に関心を向け、相手の声を「聞く」ということの重要性だ。

この『ハッピーアワー』という作品においては、「聞く」という行為が、物語の上で繰り返し描かれている。

第一部のワークショップで、第二部の有馬温泉で、四人はお互いの「はらわた」の音を聞くことを試みる。そしてまた、あらゆる場面で、登場人物たちはお互いについて聞き合い、「聞く」ことについて言及する。

 

純  「皆、芙美んことが心配やねん」

芙美 「心配?」

純  「お前らの方やって?」

      純、あかり、笑う。芙美、首を振る。

純  「いつも心配してくれてんのがわかる。一番いい方法を考えてる。皆のことを傷つけん方法はあるんかなって、いっつも考えてくれてる」

芙美 「どうかな」

純  「でも、それはそれで心配やねん。芙美は楽しめてんのかな、本当に言いたいこと言えてんのかなって」

      芙美、黙る。

芙美 「私はいっつも楽しいよ。皆といると楽しい。でも」

純  「でも?」

芙美 「言いたいことを全部言う必要があるとは、思ってない。言いたことを全部言って、皆が私のことを受け入れてくれるともあんまり思わないし」

あかり「何やそれ」

芙美 「私ね、本当はすごいワガママなの」

あかり・純「知ってる」

       笑う4人。

芙美 「そっか」

純  「隠せてないで」

あかり「結局、頑固やん」

芙美 「じゃあ無駄な我慢してたのかな」

       芙美、笑う。

純  「せやな。芙美と桜子は究極ワガママやな」

桜子 「私も?」

純  「そうやで」

あかり「あたしは?」

純  「あかりはあかりで心配や。こわがりやもん」

あかり「こわいよそりゃあ。そんなもん。純は何? もう、こわいもんないん?」

純  「あたしもこわいことばっかやで」

あかり「せやろ」

純  「足踏みしてばっか」

あかり「うん」

純  「でも、諦めたくないって思うようになった」

       3人、純を見る。

純  「今、何やホンマの人生の切れ端みたいなんが、見えてる気がすんねん」

あかり「ホンマの」

純  「人からどう思われるんか知らん。でも、欲しいもんを欲しいって言うことにしてん。もう、諦めたないねん」

       芙美、純を見る。

あかり「欲深いな」

純  「せやろ」

桜子 「でも何か今」

      純、桜子を見る。

桜子 「純、て感じがする」

純  「何やそれ」

      純、笑う。

桜子 「そっか、純ってこうやったんやって。ずっと知ってたのに、初めて知ったような気もする」(pp.149-150)

 

引用したのは、『ハッピーアワー』の中で、私がいちばん好きな場面だ。

有馬温泉への旅行の夜、四人はお互いについて話し、そして聞く。自分が相手のことをどう捉えているのかを伝え、相手が自分自身をどう捉えているのかを聞く。

最後の桜子の純についての言葉が、特に私は好きだ。「聞く」ことで初めて立ち現われてくる相手の輪郭に触れるということ。この場面に、「聞く」ことの希望のようなものを感じてしまう。

けれど『ハッピーアワー』には、並行するように「聞く」ことの断絶も繰り返し描かれている。

 

純  「桜子、大事にしてな」

良彦 「何いったい」

純  「なかなかあんな人はおらんで」

良彦 「桜子、何か言うてた?」

純  「何も」

良彦 「じゃあ何でそんなことを言うねん」

純  「言いたなんねん。二人を見てると。昔から」

良彦 「大事にしてるよ。ただ、毎日愛してるとか、花買って帰るとか、そういうんやない」

純  「うん」

良彦 「家の外は俺、家の中は桜子が守る。二人で、大事にしてる感じやないかな」

純  「ええな」

良彦 「普通やない?」

純  「普通やないよ。そういうのって二人で話す?」

良彦 「もういちいち確認せん」(p.129)

 

純  「あたしの離婚のこと、桜子から聞いた?」

良彦 「うん」

純  「裁判のことも?」

良彦 「うん」

純  「安心したわ」

良彦 「何が」

純  「会話あるやん」

良彦 「何やそれ」(p.129)

 

桜子と純、そして桜子の夫である良彦は、この『ハッピーアワー』という作品の中で、最も古い付き合いの三人だ。桜子と良彦二人の仲を、ある種のおせっかいをもって取り持ったのが純であると、作中では触れられている。

引用したのは、二人の家に泊まった純を、良彦が駅まで車で送っていく場面での会話だ。

二人の考えや気持ちをいちいち確認はしないと言い切る良彦、そして桜子と良彦に会話があることを「安心した」と言う純の姿がそれぞれの箇所では提示されている。

純は二人の間に会話があることを確認して、「安心した」と言う。しかしながら、その後の展開で、二人の間で行われていた会話が十分なものではなかったことが明らかになってくる。

 

桜子 「明日、電話する。いつなら行ける?」

良彦 「今週来週は、無理や」

桜子 「週末も?」

良彦 「来年、世界港湾都市会議が神戸であんねん。視察でお偉いさん方が来てる」

桜子 「でも再来週やったら、そんなん遅過ぎるやろ」

良彦 「ああ。行ってくれへんか」

桜子 「1人で」

良彦 「20人、10日間、朝から晩までのアテンドを任されてる。こんなんはイレギュラーなことも絶対ある。無理や」

      桜子、良彦を見る。

良彦 「言うてへんかったか」

桜子 「聞いてへん。忙しいとは聞いてたけど、それが何でかは聞いてへん」(p.166)

 

会話とは、お互いのことを「聞く」行為そのものだ。あらゆる考えや気持ち、そしてそれを方向づける理由を聞いて初めて、コミュニケーションは成立する。

そして桜子と良彦の二人は、「聞く」こと、コミュニケーションすることに断絶を抱えている夫婦であると、作中では提示されている。

しかしこうした「聞く」こと、コミュニケーションすることの断絶は、桜子と良彦に限ったものではない。

芙美とその夫である拓也においても、物語が進むにつれてそうした断絶が明らかになっていく。引用するのは編集者である拓也が担当する作家、能勢こずえの朗読会後の打ち上げの場面だ。芙美が拓也とこずえの間柄に言いようのない不安を抱えていることは、朗読会までの流れで描かれている。

 

拓也 「今日はずっと、何を怒ってんだよ、そんな態度、能勢さんにだって失礼だろ」

桜子 「ホンマにわからへんのですか」

      拓也、桜子を見る。

桜子 「どうして芙美が怒ってるか、わからへんのですか」

      桜子、芙美を見る。

桜子 「拓也さんは芙美が言いたくて言えてへんことが何か、考えたことはないですか」

      拓也、ため息をつく。

桜子 「芙美を連れて帰ってください。私が電車で帰ります」

拓也 「それは」

桜子 「はい」

拓也 「桜子さんが口を出していいことじゃないんです」

      桜子、拓也を見る。芙美、拓也を見る。

拓也 「芙美が言いたいことがあるなら、芙美が言います。電車で帰るなら、早く出てください。今晩のことは全部、僕の判断ミスです、能勢さんを置いてはいけないです」(p.200)

 

芙美と桜子は店を出る。そして拓也はこずえを車で送りながら、次のような会話をする。

 

こずえ「芙美さんから何も聞いてなかったんですか?」

拓也 「そうだね」

こずえ「会話」

拓也 「ん」

こずえ「あまりしないんですか」

拓也 「話してると楽しいって言いたかったけど言えないな」

こずえ「言ったらいいじゃないですか」

拓也 「本当のことは何も話してないのかもしれない」

こずえ「本当のことを話してないから楽しいっていうこともあるんじゃないですか」

拓也 「嫌なことを言うね」(pp.208-209)

 

芙美と拓也のこの断絶について、監督は記事(http://mess-y.com/archives/25718)の中で次のように語っている。

 

田中さんが仰っていた通り、拓也って全然悪いことをしている自覚がない。なぜなら彼にとって、こずえとの関わりは普通に自分の仕事をしているだけだから。そして、こずえのイベントを開くにあたって、妻である芙美に「仕事の中でできる範囲の協力をして欲しい」って頼んでいるだけで、芙美が嫌な思いをするとは全然思いもしない。多分、芙美から「協力できない」って言われたら、拓也は「いいよ、わかった」って言うんですよね。

 

「お互い思ったことはちゃんと言おう」っていうカップルなんですよ、芙美と拓也って。だから拓也は「(芙美は)思ったことはちゃんと言っているはずである」と考えていて、「言われてないことは、思ってないっていうことである」という前提で行動している人なんですよ。

 

男性は、取り決めの中で「ここまでやってるからいいでしょ」っていうスタンスをとりがちなんですよね。拓也もそうで、「ここまでは俺の役割だからやるよ。役割は果たしてるからいいでしょ」って全然悪気なく思っている。だからそれで女性に怒られる意味がわからない。意地悪でもなんでもなくて、純粋に「やることやっているのに、何で?」と。それ以上、求めてくれるなって線引きをしているんですね。拓也はまだ若くて、90年代に育ったくらいの年齢設定ですが、その世代の男性はさっき『POPEYE』の話でもあったみたいに「女性をケアしないとね」って知識として学んでいるんだけど、「この程度のケアで、これでいいでしょ?」って具合だったりする。これをやられてしまうと、結局のところ、状況として何も言えなくなる、女性は。

 

 

拓也は「(芙美は)思ったことはちゃんと言っているはずである」と考え、「言われてないことは、思ってないっていうことである」という前提で行動している。そしてそれゆえに、「聞く」ことをしない。拓也は芙美が口にしない考えや気持ちに気がつかない。

そしてまた、『ハッピーアワー』の中で、登場人物たちを特に翻弄するのが、純とその夫である公平との間の断絶である。

純と公平が離婚調停中であることは、第一部で明かされる。引用するのは第二部、純と公平の離婚裁判の場面だ。

 

純  「いえ、むしろほとんど会話はなかったです」

桝井 「いつ頃からですか? 同居期間が8年ほどありますね」

純  「少しずつです。今思えば、最初からそういう部分はありました」

桝井 「今は夫婦間の会話の有無の話をしています。“会話のない部分がある”というのは、基本的には会話があるということですよね」

純  「実のある会話ではありませんでした。私は彼の話を理解できなかったし、彼も私の話を理解しなかったと思います」

桝井 「しかし、会話はあった。ご主人にコミュニケーションの意志がなかったということではない」

純  「関心を向けられてはいなかったと感じています。それがない会話は、してないのと一緒です」(p.132)

 

上記は、純と、公平の弁護士である桝井とのやり取りだ。

ここでも争点になっているのは、会話をすること、お互いを「聞く」行為そのものだ。純は公平との間に、会話が成立していなかったと語る。関心を向けること、「聞く」ことはされてこなかったと、純は一貫して主張する。

一方公平は、この裁判についてどう捉えているのか。それは、下記に引用する通りだ。

 

桜子 「こずえさんとのトーク、すごくよかったです。感動しました」

      公平、桜子を見る。

桜子 「人の気持ちのわからん人やないやなって。こんな風に人と話すんやって思いました」

      こずえ、桜子を見る。

桜子 「だから余計に腹が立ちます。何で純のこと、もっと聞いてあげなかったんですか」

公平 「今、それをしようとしてます。僕には純がわかりません。純のことが知りたい。そのために純と直接話がしたい。おかしいですか」

桜子 「もう、遅いと思います」

公平 「そうかもしれません。ただ、こうならないと、僕たちは話せなかった」(p.193)

 

公平 「裁判は、僕たちの結婚生活の中で最も濃密なコミュニケーションでした。僕は裁判をしながら、初めて純の魂に触れたような気がしました。僕は初めて純という人に出会った。とても情熱的で、知的な、美しい女性です。僕は純に恋をしたんです」(p.193)

 

自分たちの結婚生活の中で最も濃密なコミュニケーションだったのが裁判だと公平は言う。

裁判は、お互いの言い分を「聞く」場所ではある。このようにして相手の言い分を「聞く」機会は、確かに濃密なコミュニケーションになりえるのかもしれない。

しかしまた別の、公平のいない場面で、純は離婚裁判について次のように言及している。

 

純  「夫が一方的に悪いと思ったことはないです。でも」

鵜飼 「でも?」

純  「でも、それを言うたら裁判では勝てへんから」

      純、笑う。

純  「それこそ、あることないこと言うてます。ひどいことをしてます」(p.121)

 

裁判で口にされる純の言葉は、必ずしも真実とは限らない。その言葉を「聞く」ことで相手を判断することには、間違いなく危うさがある。

もちろん公平は、裁判では無い別のところで、純と直接話をすることを望んではいる。しかし離婚裁判に敗れた後、もはや純は口を噤む。純は行方を暗ませ、誰も純の話を「聞く」ことはできなくなる。純がいなくなった後、残されたあかり、芙美、桜子は次のように話す。

 

芙美 「私はこれでいいと思ってる。純が本当に自分で選んだんなら」

あかり「嘘つかれてたのも?」

芙美 「嘘だったのかな。純は何も言わなかったよ。あかりが、前に言ってたじゃん。言葉にしたら全部違う気がするって。あの感じ、私もわかるよ。正直になりたいって思ったら、何も言えなくなるときってあるよ」

      あかり、芙美を見る。

芙美 「でも、皆そう思えばいいとは思わない。桜子がどれだけ悲しいか、あかりがどれだけ悲しいかわからないから」

      桜子、芙美を見る。

あかり「芙美、何でいつもそんななん」

芙美 「いつもって」

    芙美、あかりを見る。

あかり「私は悲しい。大事な友だちが、私に、本当に大事なことは言ってくれんでいなくなったんが悲しい。子どもみたいなんもわかってるよ。でもしゃあないやん」

芙美 「うん」

あかり「頭で全部処理すんなや。そんなん、あの、純の旦那と一緒やで」

      芙美、あかりを見る。黙るあかり。

桜子 「あかりは何で、そんななん」

      あかり、桜子を見る。

桜子 「うちらが純に言わせへんかったとは考えへんの?」

あかり「うちらが?」

桜子 「純はうちらにはわかってもらわれへんって思ったんやないの」

あかり「そんなん勝手な(思い込みや)」

桜子 「勝手はどっちや」

      あかり、桜子を見る。言葉がない。無言の3人。

桜子 「私は、あかりに大切なことは言わへん。言うたからて、自分の物差しで人のこと測るだけやろ。そんな人の前で、ホンマのことなんて、言えるはずがないやん」

      桜子、あかりを見る。

あかり「そんなん、自分はどないやねん。八つ当たりすんなや」(pp.160-161)

 

他者の声を「聞く」ことについて繰り返し語るのが、この『ハッピーアワー』という作品の根幹だ。

そして『カメラの前で演じること』やパンフレット、『ハッピーアワー』について語るインタビューや感想を読む中で、私がぼんやり考えていたよりもずっとこの作品は「聞く」ということに向き合った作品だということが明らかになっていった。そのような種明かしの部分に触れていく過程こそ、この作品の醍醐味なのではないか、とすら思った。

インタビュー(http://realsound.jp/movie/2015/12/post-549.html)の中で、濱口監督は『ハッピーアワー』を生んだワークショップについて、次のように語っている。

 

濱口:「聞く」ことを一貫したテーマとして運営していました。演技のワークショップというと、通常は発声の練習をするとか、脚本を覚えて演じてみるとか、 もしくはエチュードというアドリブ芝居をしたりすると思いますが、このワークショップはそういう“表現”をするのではなく、参加者が“聞くこと”のプロフェショナルになることを目指したんです。実際のワークの内容は、それぞれ興味や関心を持っている人たちにインタビューをしにいくとか、著名な人を呼ぶ機会があればトークイベントを開くとか、あとはワークショップの参加者同士がインタビューをしあうとか、そういうことをひたすらやっていました。なぜそうしたかというと、“聞く”という行為は、表現をする人を助けることにつながると考えたからです。

 

映画『ハッピーアワー』は、神戸でのワークショップに参加したひとびとの、その有志によって演じられた作品だ。ワークショップに参加した十七名のうち、三分の二程度は演技経験を持たないひとびとであったことは、『カメラの前で演じること』において説明されている。

ワークショップは、二〇一三年九月から翌年の二月までの約五ヶ月間、基本的には毎週土曜日、計二十三回行われた。

「即興演技ワークショップin Kobe」という表題を与えられたこのワークショップにおいて、いわゆる「演技」のレッスンはほとんど行われなかった。上記の引用で濱口監督が言及しているように、このワークショップは、「聞く」ことを軸として開催された。

参加者それぞれが興味や関心を持っているひとびとにインタビューをすること。トークイベントを開きその聞き手となること。参加者同士でインタビューをし合うこと。

いずれも、ワークショップにおいて実際に行われた内容だ。

そしてこの「聞く」ということは、映画『ハッピーアワー』の、登場人物や脚本を作り上げていく過程においても実践された。

ワークショップの初期段階の成果発表として、「キャラクター・インタビュー」という試みが行われた。これは、ワークショップ参加者が、キャスティングされた脚本上の役柄を即興で演じながら、互いにインタビューをし合うという試みだった(その模様の一部は、リンク先のhttp://kiito.jp/wp-content/blogs.dir/2/files/2014/05/KIITO_AiR_hamaguchi_201405s.pdf

に収録されている)。この「キャラクター・インタビュー」について、濱口監督は次のように語っている。

 

このインタビューにおいては、着地点や口にしなければならないことは決まってはいなかった。あくまで互いにキャラクターとして、しかし同時に一個人として聞き合い、語り合うことが目指された。ただ決まった筋書きがない以上、それは「ただのごっこ遊び」のように映るかもしれない。そう、そもそも演じることと「ごっこ遊び」を隔てるものは実はほとんどない。にしても、スタッフサイドもこの「キャラクター・インタビュー」が世の人の目に触れたときの反応のために、本編撮影前に演者の自身を失わせるような事態は避けたいと願っていた。

そのようなことが起こりうる要因の一つは、「即興でキャラクターを紡ぐ」こと、つまりは「嘘」の根本的な難しさだ。嘘をついたことのあるすべての人が知っているように、嘘のつじつまは基本的に合わない。真実にはある種の重力があって、辻褄の合わない部分は積み上げた先からほろほろと崩落していく。そのとき、嘘をつきながらどんどん細っていく、もしくは空洞化してゆく自分の声に、誰しも覚えがあるのではないだろうか。

即興による「キャラクター・インタビュー」がただの場当たり的な嘘の羅列になってしまうことは、演者ともキャラクターからも遠く離れた、厚みを欠いた存在を演じることだ。演じる側にとっても観る側にとっても寒々しく、虚しいそれを避けるために、はたのこうぼうが取ったアクションは「サブテキスト」を発行するということだった。キャラクター・インタビューの撮影の二週間ほど前から(WS成果発表の内容は期日の差し迫った段階で決まった)、演者にはサブテキストが大量に送りつけられることになった。(pp.16-17)

 

演者同士が、自分の演じるキャラクターとして対峙し、お互いについて「聞く」こと。その試みとしてのキャラクター・インタビューの実践にあたって、演者たちには、キャラクター理解のためのサブテキストが与えられることになった。

では、このサブテキストとは何か。

濱口監督は、そのサブテキストが大きく分けて二種類あったことを『カメラの前で演じること』の中で明らかにしている。

まず一つ目は、キャラクターの特に来歴/心情にスポットを当てた「十七の質問」と名付けられた問答形式のテキストだった。誰かは明確にわからない質問者が向ける質問に、キャラクターが応答する形式のテキストで、これを映画『ハッピーアワー』で脚本を担当したはたのこうぼう(濱口監督、野原位、高橋知由)は十七人のキャラクター分を書き上げた。

 

脚本に書き込まれたキャラクターには基本的に振る舞いや言動の「傾向」がある。読者たちと同様に脚本家たちもその傾向を読み解く形で、キャラクターについてより立体的な類推を試みつつ、サブテキストは書かれた。

すると、書き進めるうちに「問答の場」に来たからといって素直には話してはくれないキャラクターが出てくる。僕らが脚本との一貫性を保つようサブテキストを書きたいと願うとき「書けない」ことは当然出てくる、ということだ。それはテキスト上に「話さない」キャラクターとして現れる。僕らはキャラクターを離させようと躍起になった。こうしたサブテキストは来たる「キャラクター・インタビュー」における演者のための資料でもあったからだ。白紙を渡すわけにはいかない。

それは愉快な、おそらくは滑稽な作業だった。よく使った手は「一度追い返してみる」ということだった。話さないキャラクターに対しては質問者が質問を中断し、翌日来るように言い渡す。そして「想像上の翌日」において、再びやってきた彼女らはとつとつと語り始める。やって来た以上は、彼女らには話すことがある、もしくは話さなくてはならないことがある、と判断できる。だから、そのように書ける。キャラクターが言葉に詰まったときや、上っ面の答えしかしないときには、促しの質問を足すこともあった。あくまで想像上の話でしかない。しかし、何かを「語り始める」にはその必然性が要る、というごく一般的な事態は想像上のキャラクターにおいても変わらないことを、我々は執筆するからだをもって学んだ。

このテキスト作業は単なる自問自答とは異なる。そう主張しておきたいのは、これが既に書かれてあった脚本を基にして生まれているということに加えて、やはりテキストが常に三人(少なくとも二人)の手と目を通過して演者のもとに渡った、という執筆プロセスが大きい。執筆者の手前勝手ない意思によっては動かせないキャラクターの「重み」を感じ、共有した経験は、このあとも続く執筆作業全体の基盤となった。(pp.18-19)

 

そしてサブテキストの二つ目が、一つの可能性としての脚本形式のテキストだった。キャラクターたちが過ごしてきた過去の時間や関係性、その一つの可能性についてのテキストだ。

 

少なくない人物が登場する中で、どのキャラクターも脚本上描かれない「裏」の時間を過ごしている。サブテキストの役割は、その「裏」の時間をどのように過ごしたか提示するものとなった。その結果、サブテキストは、五時間を越える分量の脚本とほぼ同程度存在している。

サブテキストにおいては、脚本の物語時間の枠を超えて、キャラクターたちは無償に存在している。そのことは彼女ら自身の生活があり、即ち演者とは別個の人格としてあるという感覚を生んだ。それは、とても仄かな感覚だ。彼女らは現実には存在しない。それは間違いない。しかし、キャラクターに対する「尊重」としか呼び得ないものがサブテキストを読むことによって、演者には生まれるように思われた。

サブテキストは言うなれば、キャラクターたちの行為に「合理性」を与えた。脚本に含まれるある言動・行動は、そこだけ「断片」として取り上げれば突拍子もない。しかし、演者にしか知らされていないキャラクター独自の行動原理は存在する。サブテキストによってそのキャラクターを理解し、表現する人間は演者しかいないという状況が作られた。(pp.21-22)

 

このサブテキストが、あくまで「キャラクター・インタビュー」における即興演技をする際の参考・よりどころであって、「物語上の正解」などではないということは繰り返し強調され、映画本編の撮影段階に至っても書き続けられたことは、『カメラの前で演じること』において触れられている。

濱口監督は鼎談(http://kansai.pia.co.jp/interview/cinema/2016-01/HappyHour.html)の中で、次のように語っている。

 

安田「さっきから好き勝手なこと言うてますけど」

濱口「いや、映画っていうのは、観客に想像してもらってナンボと思います。いろいろと想像したり言ってもらえるのは」

トーフ「それだけ映画に余白があったってことですよね」

安田「こんだけ脚本が書き込まれているにも関わらず」

濱口「脚本を書いている側としてもそういう部分はあって、同人誌的な想像力といいますか、キャラクターができ上がってきた状態で、いろんな想像を延ばしていった結果がこの脚本になった気がします」

 

質問をぶつけたり、脚本上描かれない「裏」の時間としてのサイドストーリーを与えることで、原理的には聞くことの不可能なキャラクターの声を聞こうと試みる過程は、確かに「同人誌的な想像力」だと、この鼎談を読んでも思った。*2

この「同人誌的な想像力」を私は「二次創作的な想像力」だと読み替えてしまっているから、もしかしたら若干ニュアンスが違うのかもしれないものの、映画『ハッピーアワー』の制作過程で行われた、特定の質問に対するそのキャラクターの回答を考えることや、本編には描かれない一つの可能性としてのサイドストーリーを考えることは、二次創作の場面では珍しいことではないとは思う。しかしここでしたいことは、映画『ハッピーアワー』で行われていることがあらゆる二次創作で既に行われているということを単に指摘したり、そのことをあげつらって優劣をつけたりすることではない。言いたいのは、こうした想像力が、一次・二次を問わず、他者としてのキャラクターを理解するための一つの普遍的な手段なのだということだ。そしてそのことに、私自身は改めて気づかされたということだ。

もちろんこうした想像力は、なにも創作の場面に限ったことではない。本来、他者とのコミュニケーションはそのようなかたちで行われるものだ。相手のことを知りたいと思ったら質問をするし、相手の昔の話を聞く。そういうかたちで相手に関心を示すことで、相手の声を「聞く」。

そして『ハッピーアワー』の演者たちは、質問への回答やサイドストーリーを読むことで、キャラクターの声を「聞く」。そのことは、演者と演者自身の演じるキャラクターとの対話でもある。

 

演技に内在するパラドクスは二重の方向性を持っている。キャラクターは尊重されなくてはならない。彼女は他者だからだ。あらゆる他者との付き合いと同様に、想像上のキャラクターではあっても彼女たちは固有の行動原理を持つ。その人の選択は尊重されなくてはならない。演者たちにはテキストを尊重して欲しいとは告げていた。ただ、それは一言一句を間違えずにいて欲しいとか、そもそも変更は認められないということでは全くなかった。「彼女は私ではない」以上、演じる上での自身の違和感を見て見ぬ振りをしないで欲しい、ということを伝えていた。それを前にした時には、改稿も辞さないという旨も繰り返し伝えた。

この「自尊」の態度もまた、あらゆる他者との付き合いと同じ重要さを持つ。自分自身の感情を尊重することなくしては、他者との付き合いはいずれ必ず破綻する。自分自身の感情はコントロール可能であって、円滑な他者との付き合いのために常にそれを抑制することを選ぶ人は、結果的に関係の一端を担う人間を破壊している。つまり「自分が自分のまま、他者は他者のまま、一緒にやっていく」という人との付き合いの難しさは、そのまま想像上のキャラクターを演じる困難さに移し替えられるのだ。他者=キャラクターの尊重はもちろん重要だが、もしかしたらそれ以上に自身の違和感は尊重されなくてはならない。それは彼女たちが日常で培った、「からだ」のものだ。(p.55-56)

 

この期に及んでも、演技において「聞く」ということが何なのか、まだ考えが及ばないところです。ただ、ここまでワークショップから映画製作全体を通じて感じるのは「聞く」ということ自体、対話の相手を通じた自分自身への吟味なのだ、ということです。(p.52)

 

そして『ハッピーアワー』の撮影において、こうした演者と演者自身の演じるキャラクター同士の対話の中心を担ったのが、「本読み」だった。濱口監督はこの「本読み」を、『ハッピーアワー』撮影において唯一具体的な演出であった、とも語っている。

「本読み」とは一体何か。「本読み」とそれに伴う『ハッピーアワー』の撮影方法について、濱口監督は次のように説明している。

 

『ハッピーアワー』の撮影に際して演者には基本的に台詞は覚えずに、撮影現場に来てもらった。撮影が始まる前に現場で(正確にはでき得る限り現場の近くの別室で)、参加する演者全員で本読みをしながら、台詞を覚えていく。(中略)

(中略)

役者が読み上げるのを、濱口が聞きつつ、台詞を修正していく。台詞の削除や差し替え、語尾の修正、沈黙の長さなどがこの場で指示され、演者たちはそれを自身の脚本に書き込んでいった。修正を経ては読むことを繰り返し、全体がある程度整形されたと思われた時点で、覚えに入る。

もちろん、いちどきにすべては覚えられないので、一~二分程度の会話の分量を読んでは、脚本を伏せる。覚えが不完全であればまた読み、また伏せ、覚えたら次のパートに入る。それを繰り返す。(中略)

(中略)本読みは可能な限り現場とは別室で行われ、演者は台詞を完全に覚えた段階で現場に入る。濱口から大まかな動きが指示されて、何度かリハーサルが行われる(このリハーサルの時点では、演者の台詞はまだ本読み調だ)。スタッフはそれを見つつ、動きを共有する。動きも固まった時点でカット割りがなされると、撮影が始まる。それが『ハッピーアワー』撮影の基本スタイルとなった。(pp.58-59)

 

そしてこの「本読み」の意図について、濱口監督は記事(http://realsound.jp/movie/2015/12/post-549.html)の中でこのように語っている。

 

濱口:この方法論自体はすでにあるもので、僕が始めたわけではありません。フランスの映画監督であるジャン・ルノワールが、『ジャン・ルノワールの演技指導』というドキュメンタリー映画で彼自身が解説しているのですが「演者が台本を一読して膨らませた演技は、紋切り型にとどまる」というんです。ニュアンスを徹底的に排除した状態で台詞と向き合わないと、簡単に「こういう感じにするとリアルかな」と演者の記憶から引き出した、過去の表現の再現に陥ってしまう、と。だから、何度も台詞を読み込んで、テキストそのものに固有の言い方を教えてもらう必要があるというんですね。今回、僕が採った方法論は、まるまる ルノワールの方法論と重なるものではないですが、実践して、仕上がった映像を観て、ジャン・ルノワールの言っていたことは、やはり本当だったのかな、と思いました。

 

「本読み」を通して、演者はテキストを「聞く」。そうして演者はテキストと対話する。演者は「本読み」を通じて紋切型の表現を回避し、自身とテキストを縒り合わせていく。

そして演者にとって、その過程はテキストと自分自身を同時に尊重することでもある。

テキストを読むことを通じ、演者は自身が演じる登場人物の固有の行動原理に触れる。その中で、演者は自身がこれまで体得してきた考え方や感じ方とも対話を行う。

演者と演じられる者は他者である。そして誰かを演じるということは、いわば他者の中に他者が同居することだ。そのようにして他者と他者が関係を取り結んでいくことでもある。他者と他者が関係を取り結んでいく難しさを丹念に取り扱い、作品作りに繋げた方法のひとつがこの「本読み」だった。

『ハッピーアワー』のすばらしさは、他人に関心を示すということ、他者の声を「聞く」ということが、途方もない丹念さをもって取り扱われているところにあると私は思う。

『ハッピーアワー』において、作品の持つ物語と、その作品を作り上げる過程は「聞く」ということを通じて駆動されている。けれどそれは同時に「語る」ことでもある。『ハッピーアワー』という作品とそれを作り上げる過程において、「聞く」ことと「語る」ことは、それぞれが等価値のものとして取り扱われている。

また、この等価値のものとして取り扱うということも、『ハッピーアワー』を語るひとつの軸になるようにも思う。

『ハッピーアワー』についてのインタビューや対談を辿っていく中で、心が震えてしまったのが、立誠シネマ支配人の田中誠一さんの指摘だった(http://mess-y.com/archives/25718)。

 

田 男だろうが、女だろうが、恋愛ってものを考えた時に、誰かと関係することって、「具体的にアプローチすること」なんですよ。それを濱口監督はこの映画でやっている。たとえば、プライベートで、恋人だったり結婚したりしている相手との関係をどうするのかって、個々に違うじゃないですか。それはそれぞれが、それぞれの相手との関係をどう作るのかお互いに考えていくしかない。絶対に正解がない。映画の中で、登場人物一人ひとりのそうした関係性構築を、「描いてる」というよりも「やってる」映画なんだと思うんです。

 

田 ともすれば、離婚や不倫という題材を選ぶことは、下品になってしまいますよね。品性の問題。でも、この映画は絶対下品にならなくて、それは、さっき言ってもらったように、作品内に登場する「この人」が、「このシチュエーション」の中で、「どう生きるのか」を、作家がすごく丁寧に考えているからなんだと思います。そこが、この映画の中ですごく大事で、「この人たち」が、一人ひとりでその人であるっていうことを描いているということです。そして、人生においては、不幸だったりうまくいかないことが基本的にはずっとつながっていて、映画の中で「地獄です」というセリフがありますけど、生き地獄を感じることは、みんなあると思うんですよね。でも何で生きるのかっていうのは、答えがないわけで、みんな答えのない中で生きてる。その地獄でも「生きてる!」って良い風に感じられる瞬間があって、多分それが、タイトルの『ハッピーアワー』なんでしょうと僕は思うわけです。で、そういう人生を、われわれも生きてるし、僕自身も生きてるし、そういうハッピーアワーが、自分の人生の中にもあったし、今後もあるんだろうなって思ってます。

 

 この『ハッピーアワー』という作品は、現実に生きる誰かに対するように、作中の登場人物たちに関心を向け、声を「聞く」。そうしたいわば現実と虚構を等価値に取り扱うような丹念なアプローチが、とても胸に残った。そして現実と虚構を問わず、そのようなアプローチこそがいちばん難しい。

どんな悲しさも、楽しさも、嬉しさもたぶん有機的なもので、そういうエモーショナルなものが、見たもの、聞いたもの、触れたものと不可分に繋がっていることを説明するためにはたくさんの時間が必要になる。わたしたちはそのことを頭では理解しながらも、実際にはそういう有機的ないろいろの多くを保留にして、要約していってしまう。自分と他者がお互いを知っていくためには、本来であればそれぞれの要約のない、膨大な時間に向き合うことが必要になる。それが「聞く」ということだ。しかし、わたしたちはその難しさを知っている。時間は有限であり、お互いに関心を向けるだけの余地が十分には持てないということ、横着して蔑ろにしてしまいがちであるということをよく知っている。

だからこそ、この『ハッピーアワー』を貫く「聞く」姿勢に心が震えた。そして「聞く」ことが「語る」ことと不可分であるということ、「聞く」というテーマに貫かれたこの作品が、すぐれた「語り」を獲得していることに驚きを覚えた。

「聞く」ことが同時に「語る」ことになるということ。「他者」であると同時に「自分」でもあるということ。

一見対立するようにも思えるものが、それぞれのかたちを損なうことなく共存している。そのことは私にとって本当に驚きだったし、そのように感じさせてくれる作品に出会えたことが本当に幸せだった。

 

 名作だった。この映画を見ている時間、ほんとうにしあわせだった。『ハッピーアワー』というタイトル。それは、その映画を見ていたあいだの自分の状態をあらわしてもいる。

この映画は五時間を超える。得てして忙しいわたしたちは、そんな長尺の映画を見るのはしり込みしてしまうかもしれない。僕の携わる演劇というジャンルもそうだが映画もまた、上映の時間のぶんだけ観客その人の人生の時間を、物理的に奪う。けれどもわれわれは知っているものだ。いったん奪われた上映・上演の時間がむしろ、それこそがわたしの人生の時間そのものだったとさえ言えるものになる、そういうことは起こり得るのだと。そのような時間を、ハッピーアワー、と呼んだっていい。

 

『ハッピーアワー』を見る体験は、ある人物の顔を次第に見いだすプロセス、それを美しいと思うようになるプロセスの体験ともなる。その生々しいプロセスに一番似ているのは、やっぱり、誰かに恋をしていくときのそれだと思う。

 

普通の人が普通の考え方をして導き出した奇抜でも極端でもない見解。それがそこにいるその者を戦慄させてしまう。そういったことが起こる。僕はそのことに、途方に暮れた。

主人公の四人の女性たちがこの映画の中で直面する出来事が、ありふれてるとか陳腐とか、そんなことはまるで思わなかった。直面している問題が一大事だという、そのことだけが重要で、『ハッピーアワー』はそれをないがしろにしない。この映画は、出来事に直面する人間のほうにあくまで寄り添っている。出来事のほうを向いて人間の事情を軽んじることは一瞬もなかった。だから五時間を超える長尺になる。

 

あの四人の女性たちの人生を、僕自身の人生だと言える。そんな状態を、たったの五時間で獲得できた。五時間なんて、短い。短すぎる。僕はもっともっと見ていられた。見ていたかった。

 

引用したのは、パンフレットに岡田利規が寄せた『ハッピーアワー』についての言葉だ。

パンフレットを買って全体を読む人が増えるといいと思ってしまうくらいに、私はこの文章が好きだ。

そしてこの文章では、『ハッピーアワー』という体験について、「観る」でなくて一貫して「見る」という言葉を使っている。

通常、映画を「みる」という時は、「見る」よりも「観る」を使う方が一般的だと思う。

そして「見る」と比べて、「観る」には、自分の世界と断絶したできごとを他人事のようにまなざすような、そんなニュアンスがある。

だからこそ岡田利規は「見る」という言葉を選択したのだろうか、とも思った。

他人の人生が自分の人生と近しくなる瞬間、自分が自分のまま別の何かととけあっていく瞬間をとらえたこの『ハッピーアワー』という作品には、確かに「見る」という言葉の方が似つかわしい。

 

 

最後になってしまったが、今回感想をまとめるにあたって、一つ気になったことがある。

 

濱口「脚本を書いている側としてもそういう部分はあって、同人誌的な想像力といいますか、キャラクターができ上がってきた状態で、いろんな想像を延ばしていった結果がこの脚本になった気がします」

安田「監督は、特に思い入れの強いキャラクターっています?」

濱口「それはねえ、、言わないようにしてるんです」

 

上記は、さきほど引用した鼎談(http://kansai.pia.co.jp/interview/cinema/2016-01/HappyHour.html)での濱口監督の言葉だ。

思い入れの強いキャラクターについての質問を受けた濱口監督は、ここでは明言を避けている。

私は、そのキャラクターが誰なのかがとても気になっている。

『ハッピーアワー』という作品が「聞く」ということを取り扱う作品である、という観点から言えば、そのキャラクターは間違いなく純になると思う。

純は、他者の声を「聞く」ということ、関心を向けるということを作中で一番理解し、実践しているキャラクターであるように私は思う。

テキスト集成の中には、以下のやりとりを含むサブテキストが収録されている。

 

あかり「純、聞き上手やん。何か、すごく慕ってる感出すやん。そうすると、話してしまうやん」

芙美 「うん、純さん、そういうとこある」

あかり「いや、でも、純はむしろ芙美さんや言うてたで」

芙美 「え、何それ」

あかり「あたしが純って、聞き上手やんなー、喋ってまうわー、みたいな感じで言ったら。いや、上には上がいるんだ、と。それが芙美さんやと」

芙美 「えー、何だろ。そう? 純さんは本当に、色んな人のすべらない話を」

      芙美、あかり、笑う。

芙美 「持っているから、この人、どんだけ友だち多いのって思って。へーって聞いちゃう」

あかり「せやな。でも、何より自分が言われてんねん。気づくべきやったわ」

芙美 「そうね。私も何言われてるか」

あかり「いや、でも悪口とか言わへんやん」

芙美 「そうね、そう。そこが気分いいのかも」(p.274)

 

純は他者に関心を向け、声を「聞く」。そしてまた、他者と他者の間を取り持つ存在として描かれている。

あかり、桜子、芙美の三人は、純の存在なしにはおそらくお互いに知り合うこともなかっただろう。桜子と夫の良彦も、純の存在なしには結婚まで至らなかったかもしれない。

ワークショップ後の打ち上げで、離婚裁判で、有馬温泉旅行で、純はその他の登場人物たち、ひいては彼女たちのやり取りを見つめる私たち観客の心にざわめきを残す。そういう意味で、純はこの作品のヒロインのようにも見える。

濱口監督にとって思い入れの強いキャラクターははたして純なのか。それともそうでないのか。そしてそれは、なぜなのか。

この先どこかのタイミングでその答えに触れることができたら、私はとても嬉しい。

 

カメラの前で演じること

カメラの前で演じること

 

 

*1:濱口監督による『ハッピーアワー』のテキスト集成

*2:そしてまた、そのようにして集積した他者としてのキャラクターの声を、複数の他者が持ち寄る過程もまた「同人誌的」のようにも思えた。しかしあくまで「同人誌的」であって同人誌そのものでないのは、あくまで個人的な考えながら、二次創作の場面では持ち寄った声がある程度は統合できない段階に留まることが前提とされている一方で、映画『ハッピーアワー』では、持ち寄った声をできる限り統合する方向に進めることが前提とされているためではないか、と思った。そしてそれこそ、二次創作と一次創作の違いなのかもしれないとも思った。もちろんそこに優劣はなく、あるのは単に目的の違いなのかもしれないとも思う。